π中間子原子

π中間子からカイラル対称性に迫る

私たちを含む物質が何からできていて、どのように形成され、これからどうな るのか。物質を形作る相互作用のなかでも強い相互作用は、 低エネルギーで特に強く結合し、その 非摂動的性質は多彩な現象をもたらす。 π中間子原子分光実験ででは、新たなπ中間子原子分光法を開発し、これまでを大きく上回る分光分解能で 分光を行う。 原子核の媒質効果によるQCD真空構造の変化を捉えることで、 有限密度におけるクォーク凝縮を導出し、さらにその 密度依存性を研究する。クォーク凝縮の密度依存性は、核子質量の起源であるπNシグマ項に 深く関係しており、物質質量の起源を探る上で鍵を握る。π中間子原子の量子束縛状態を精密分光することにより、 QCD が導く多彩な現象の背後にひそむメカニズムを解明し、物質の起源と進化の謎に迫る。

QCD は低エネルギーで発散的に強く結合するので、「空」の真空は不安定であり、真空は何ら かの構造を内包する。理論によると、真空と同じ量子数を持つクォーク凝縮(クォーク・反クォー ク対)やグルーオン凝縮の存在が期待される。クォーク凝縮が存在すると、 右巻きと左巻きのクォークが混合されるため、ラグランジアンで近似的に成立しているカイラル 対称性が破れ、物質に質量がもたらされる。真空自体は観測できないが、その性質は物質質量の ような観測量を通して評価可能である。

実験によるアプローチでは、原子核を極微の実験室とし、中間子をプローブとして利用する。 ここで原子核は真空にドープされた、固体物性におけるキャリアと同じような役割と見なされる。 J-PARC やCERN での実験では、陽子や重イオンビームで核中に中間子を生成し、崩壊で放出 される粒子を計測する。不変質量を構成することで中間子の質量変化を探る研究が多く実施され てきた。他方、不変質量ではなく、核反応による中間子束縛状態の質量欠損分光も行われている。 J-PARC ではK− ビームを用い、K− 中間子が陽子(p) 二つに束縛した系K− pp の生成・分光に成功した。また、SPring-8 や独重イオン研究所(GSI) では擬スカラー中間子九重項で最も重 いη′ の束縛核を探索する実験が進行中である。このように世界中でQCD の非摂動性がもたら す、カイラル対称性の破れや軸性U(1) 対称性の量子異常のような興味深い物理現象を探る試みが なされており、定量的で高精度な実験データが待ち望まれている。

我々のグループでは、2007 年のRIBF 竣工と同時期から実験方法を考案し、π 中間子が錫原子に束縛した系の精密分 光実験をPAC に提案、日独を中心とする国際共同研究チームを組織して実験実施した。先行実験 (RIBF-27) では、π 中間子 錫121 原子の観測に成功し、初めて1s , 2p 状態の同時観測と生成断面積の散乱角依存性を決定 した。この結果は、プレスリリースされると共に、様々な国内メディアで報道された。続く 高精度実験(RIBF-54R1) では一次ビー ムの分散整合光学系を開発し、新たな較正方法を開発することで、これまでを大きく上回 る、精度と正確さで分光することに成功した。結果を元に、π 中間子-原子核の相互作用を精度良 く決めることで、媒質効果における波動関数繰り込みによる相互作用の変化を導出した。その結 果、標準原子核密度の約60% に相当するρ = 0.099 fm−3 において、クォーク凝縮が真空中と比 べて77 ± 2%となっている事を見いだした。この結果は、プレスリリースされると共に、国 内だけでなく外国メディアでも紹介・報道された(例えば、S. Freeman, “Modified in medium”, Nature Phys. 19, 764 (2023).)。

現在、さらなる発展として、より高精度で系統的な研究を行うと同時に、標的とビームの粒子を 入れ替える「逆運動学」によるπ中間子原子分光実験を準備している。これが成功すれば、 π中間子を不安定核に束縛する可能性にもつながる。π中間子不安定核は、エキゾチック原子を エキゾチックな原子核に対して生成するという世界でも初めての試みであり、その分光情報には、 ハドロンと原子核の全く新たな世界が反映されると期待されており、真空をより深く理解することにつながる 可能性がある。

左、実験で得られたスペクトル。横軸が原子核の励起エネルギー。π中間子が原子核に 束縛された状態が、分光ピークとして観測されている。 右、横軸が密度で縦軸がカイラル凝縮の量。世界で初めて、原子核密度付近でカイラル凝縮が 減少しているのを確認し、南部によるQCD真空の自発的対称性の破れに関する理論を実験的に確認した(図は Nature Physics 19, 764 より引用)。