η′-原子核

軸性U(1)量子異常の研究

イータプライム中間子(η′) には、少し変わった呼び名がある。擬スカラー中間子の九重項のメン バーであるη′ は、他の8 個がカイラル対称性の破れに伴い出現する質量ゼロの南部–ゴールドス トン粒子であるのに対し、『南部–ゴールドストン粒子のなり損ね』と呼ばれる。というのも、他 の8 個(π, K, η)の質量140~550 MeV/c2 と比べて、η′ は958 MeV/c2 と他を大きく引き離すか らである。この“大きすぎる” 質量は、η 問題として知られている。最新の理論では、グルーオン が介在して、量子色力学(QCD) の軸性U(1) 対称性(UA(1)) の量子異常とカイラル対称性の破れ を結びつけた結果であると考えられている。このようにη′ は、QCD 真空が持つ対称性や構造を 解明し、物質質量の起源を理解する鍵を握る。一方、これまで実験的知見は限られる。我々のグループの 研究で中心となるのは、ドイツ国立重イオン研究所(GSI) で実施する国際共同実験である。η′ が炭素原 子核近傍の量子軌道に束縛した状態(η′ 核) を探索・分光する。この未知の状態を発見し分光する ことで、η′ の持つ特異な性質を明らかにし、原子核という地上最高密度の物質であり、カイラル 対称性が部分的に回復した環境を“フェムトラボラトリー” として利用することで、η′ の質量が 変化する事を分光計測によって定量的に観測する。

ハドロンが質量を獲得する過程を解明するためには、真空の対称性を議論する必要がある。 カイラル対称性の回復した世界から現在の破れた状態まで、擬スカラー九重項に属する中間 子の質量スペクトルは変化し、カイラル対称性が回復すると九重項は縮退する。 カイラル対称性が力学的に破れると、質量ゼロの南部-ゴールドストン粒子が生成する。これにカ レント質量の効果を入れると、現在の質量となる。南部-ゴールドストン粒子は、その定義からカ イラル対称性の破れによって生成する構造であるカイラル凝縮とは結合しないが、η′ は他と大きく異なる振る舞いを見せる。η′ は、カイラル対称性 が力学的に破れた際、UA(1) 対称性を破る小林–益川–トフーフト項の寄与により、グルーオン中 間状態と結合する。このグルーオン中間状態はカイラル凝縮とも結合するので、結果としてη′ の 質量には、グルーオンを通してカイラル凝縮が大きく寄与している可能性がある。これを確認す るためには、高温あるいは高密度のようなカイラル対称性が回復した環境でη′ の質量を計測する のが効果的である。η′ の場合、特に大きな質量の減少が期待される。

これまで我々のグループでは、(p,d) 反応の欠損質量分光でη′ 中間子原子核を探索する 第1 段階の実験を独GSI 研究所で実施した。この実験では η′ 中間子原子核は 観測されなかったものの、得られた高統計・高分解能のスペクトルを用いて、η′-原子核の相互作用に制限を与える事に成功した。

第2段階の実験では、 崩壊粒子をタグすることで前述の第1 実験よりも大幅な 感度の向上を図った。この実験を実現するた め、独ユーリッヒ研究所より大立体角WASA 検出器をGSI へ移設して刷新し、FRS スペクトロメータ 内に組み込んだ(図)。WASA の移設から、FRS イオン光学系・MPPC を用いたTOF バレル・データ取集系の新規開発、また、飛跡検出器・電磁カロリメータ・超伝導ソレノイド 磁石の試験といった、ほとんどの開発項目をGSI に常駐して主導した。2022 年に本測定を実 施し、計画通りの統計量のデータ取得に成功した。 結果、スペクトルには、閾値付近 −30 MeV 付近に構造を確認することに成功した。 現在、第3段階の実験として、さらに高統計で広い領域での系統測定をめざした実験を準備している。

左、第2段階の実験の様子。WASA 検出器を GSIに設置して実験を行った。 中央、得られた励起エネルギースペクトル。中央付近に二つのピークが見える(図はarXiv:2509.07824より引用)。 右、新ソレノイド電磁石。これからGSIに設置して実験を行う。